彼女の福音
肆拾捌 ― 終着の兆し ―
プロポーズするかもしれない、という話を聞いたのは、馴染みの喫茶店「Folklore」でだったと思う。
話があるということで、私はちょうど残業もなかったから、会社が終わると杏と待ち合わせをした。そしていつもの窓辺の席で、私は紅茶とガトーショコラを、杏はカプチーノとモンブランを前に杏の惚気話、もとい相談事を聞いていた。雨がパラパラと降る、少し大人しい感じのする夕方だった。
「もうねぇ、やっぱりいろいろ考えたんだけどねぇ……これでも悩んだのよ?」
「ああ、わかった。それでも結局は結婚したい、と。そういう話なんだろう?」
「でもねぇ、タイミング的にね……」
「付き合い始めて、ああ、三年になるのか……早いな」
「早い?そう思う?困っちゃうわねえ……」
「困る?」
「付き合ってから即結婚って思われると、何だかそれじゃあ、婚期逃したくないから何が何でも結婚するわよって感じに取られちゃうような気もするし……」
そう言いながら杏は実年齢よりも十歳はサバを読んでも差支えない顔を朱に染めた。とてもではないが私よりも年上には見えない。とはいえ、私の親しい知り合いの中で私より年上に見える、というか思える、という者が少ないのも確かだ。
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだ。時間がたつのは早いなって意味で言ったわけでな?別に杏が行き遅れだとか幼稚園のお局様だとか言ってるわけじゃないぞ?うん、思ってもいないな。これっぽちも」
「滅茶苦茶そう思ってるでしょっ!!」
「わかったから、辞書はしまおう、な?喫茶店の中では店員が迷惑するだろう?」
私の正論に、杏は渋々頷いて広辞苑を魔法のように消した。うん、やっぱり私の方が年上に思えてきた。
「しかしその、本当はそういう事は春原がやるべきじゃないのか?」
あまり固いことは言いたくないが、大体においてプロポーズなどは男性がやるべきものだと思う。別に誰、というわけではないが、いくらその相手が鈍感且つ優柔不断であっても、いくらその相手に待たされて待たされて待たされ続けても、それでも待つのが愛という気がしなくもない。いや、本当に誰とは言わないが、むしろそうして待たされて待たされて待たされた挙句の言葉こそ胸を打つ何かがあるのだと思う。
「何だかねぇ、そういう雰囲気は匂わせても食いついてくれないのよね」
「奥手と言おうかヘタレていると言おうか……仕方のない奴だな」
「よねぇ……あーあ、あたし何でこんな鈍感な奴に惚れちゃったんだろ?」
「この街の七不思議だな」
ちなみに他の七不思議は恐怖のジャムパンの製造法、殺人バイオリンの演奏法、星なのか手裏剣なのかよく解らない木彫りの作品を配達する少女、黒魔術を行う喫茶店に顔がモザイクとなる謎の男。それら全部が知り合いなのはいかがなものか。
「ちなみにあんたと朋也の場合どうだったの?少し興味あるわねぇ」
「私たち?そうだな……」
思い出すのはあの八ヶ月。私達は思わぬ事故で全てを失い、そして苦しみながらも全てを取り戻した末の、雪景色の桜並木。
「いろいろ……あったんだ。それでも私たちは何とか歩き続けることができたから、そのゴール地点で朋也が言ってくれたんだ」
「……あたしもそんなお熱いプロポーズ受けたいものだわ」
ふふ、と笑う杏に、私は憮然とした顔で言った。
「冗談はよせ。私はあんな思い、杏にはしてほしくないぞ」
「そんなもんかしら」
「普通が一番だ。そういう意味じゃ、私は古河さんを時々すごく羨ましいな、と思うことがある」
そう言って紅茶を一口飲む。そう、普通が一番だ。いつか古河さんに尋問、ではなくて聞いてみたことがある。何でも古河さんと悠馬さんは秋生さん経由で知り合い、演劇を通して恋をして、そして結婚したんだそうだ。ちなみに言うと美佐枝さんの場合はまあ少し問題外としよう。
「でも何だか緊張するわね、いざ言うとなると」
「まあそういうものだからな。一生を共にする相手とその誓約をするんだから、緊張するのが当たり前だ。むしろ気軽に『結婚しようぜ』とのたまう奴がいたら、十中八九詐欺師だろうな」
「あはは、そうよねえ。うん、頑張れあたし」
「頑張れ杏。ふれっふれっきょ・お・お」
「恥ずかしいからやめて」
む。一生懸命にやったのに駄目出しを食らってしまった。
「ちなみに、何で今になってそう思うようになったんだ?何かきっかけでもあったか?」
「きっかけ、ねえ……ないわけでもないのよね」
するとはにかみながら杏はスプーンでカプチーノをかき回した。すごく悔しいが、今女の子らしさで負けた気がする。
「智代、糖尿病の検査は済ませた?紅茶のおかわりは?あまりの甘さに店員さんにコーヒーポットを追加注文するお財布の準備はOK?」
「わかったわかった。どんな惚気でも準備万端だ」
すると杏は自分を落ち着かせるかのように深呼吸を数回して、私の目をじっと見た。
「……実は」
「実は?」
「杏ちゃんはなんと、陽平君のことを激ラブになってしまったのでした。はい、はくしゅ〜」
ぱちぱちぱち、と手を叩いた後、私は杏を見た。
「……それだけなのか」
「うん、そうよ。それだけ」
「もっとこう、運命的なきっかけがあったとか。杏と春原は前世で別れなくてはいけなかった悲恋の恋人同士だったとか、実はずっと昔に出会っていて、いつかまた遊ぶ約束をしたとか」
「やだ、ギャルゲーみたいなこと言わないでよ」
たはは、と杏が笑って手を振った。
「でもね、結局そこに落ち着くと思う。結局はね」
「ふむ」
「智代は、さっきいろいろあったんでしょ」
不意に矛先を自分自身に向けられて、私は面食らった。
「ああ、まあな」
「でね、それを二人で乗り越えた。その過程で、朋也は『こいつと一緒になりたい』と思うほど智代のことを好きになった。最後の線を踏み越えて、智代にプロポーズした。で、智代はその時点では少なくとも朋也と同じくらい朋也のことが好きだった」
「何だ、よくわかっているじゃないか」
「だからね、あたしはきっかけはどうでもいいと思うの。例えそれが劇的な一歩のおかげでも、日々の小さな積み重ねの結果でも、辿り着く場所がその一線を踏み越えた場所ならね」
私が黙っていると、杏は顔を赤くして私の肩をバンバンと叩いた。
「やだ、黙ってないで何か言ってよ、もお。恥ずかしいじゃないの」
「いや、目から鱗が落ちたばっかりなのでな。確かに、愛の形は人それぞれだしな。で」
私は紅茶をかき混ぜながら杏に笑いかけた。
「お前は、その一線を越えたんだな」
「ええ、まあね。一杯考えて、やっぱり悩んで、ちょっと陽平にそれらしい話もして、でもね、結局のところ」
そこで杏は胸を張って笑った。
「あたし、あいつのことが好き。大好き」
「……ごちそうさま」
しばらくこのガトーショコラには手を出さない方がよさそうだ。いや、本気でコーヒーをポットごと貰いたくなった。
「でも……ねぇ?」
「不安か?」
「そりゃそうよねえ。うちの親……というより父親のほうね、問題は。とにかくあまりいい顔してないし、椋は『私、春原君と家族になっちゃうの?』って微妙な顔するし……」
「そうか……家族の反対は、きついものがあるな」
「まあ母親のほうは賛成っぽいんだけどね。ああ、あと陽平もあたしも仕事はしてるから、そこらへんの経済的な援助とかそういうことで困ることはないと思う。何だかんだで屋ってイケないことはないと思うの。でもねぇ、やっぱり不安っつーたら不安よね」
「私の母だって、私たちの結婚を全面的に肯定してくれたわけじゃないようだしな。どうも『でもしちゃったものはしょうがない』という感じらしい」
「え?でも普通はお父さんが反対するようなもんでしょ?『貴様に娘はやれんッ!!出直してこいッ!!智代、パパはこんな奴とお前の交際を認めた覚えはないぞッ!!!』って感じで」
そう言ってちゃぶ台をひっくり返す真似をした。それではパパという感じじゃなくて、親父だろう……
「付き合い始めてからはそんな感じだったんだが……ある夜、朋也が酔いつぶれた父を家まで運んできてくれたんだ」
「え?どういうこと?」
「いや、父には遅くなった時に行くラーメン屋があってな?そこで酒を飲んでいたら隣で気のいい青年が世話を焼いてくれたので、迷惑ついでに自分の愚痴を聞いてもらって、そして家まで送ってもらったら、それが朋也だったというわけだ」
「……ええ話や。わてはごっつい感動しとる」
「ところがだな、その愚痴というのが私と朋也のことについてだったらしいんだ」
「……すごく微妙ね、それ」
軽くため息を吐いた。まあ、ことの真相がわかった時の父さんの顔は見ものだったがな。
「ねえ智代、あんたはどう思う?」
不意に杏が心配そうな顔を私に向けてきた。
「あんたから見てさ、あたしと陽平、やっていけると思う?」
ふむ。
いい質問だ杏。よかったシールを一枚あげよう。
正直、時々私には杏がものすごい物好きに見えたりする。特に私と朋也が二人でいい感じになっている時にいきなり「岡崎〜!遊びに来たぜってうわっごめんなさいっ!何つーか、えと、グッドエッチ!!」と邪魔された時など、蹴り飛ばした春原の鼻を朋也がモンキーレンチでねじ回しているのを見ながらすごくそう思った。
でも、それでも
「私の意見、か」
「うん。智代、あたし達を見てどう思う?」
「すごく……お(ry」
「いやそこで略さないの!!つーか全然違う意味になっちゃうじゃないの!」
「わかったわかった。いや、すごくお似合いだと思うぞ、普通に」
「……そう思う?」
しばらくの間視線を逸らした後、杏は私のほうを恥ずかしげにちらちら見ながら聞いた。
「ああ。いやまあ、昔からみんなで何かやるとなると、春原の馬鹿に付き合って常識を叩きこむのは私と杏のどちらかだったからな。こう言っては何だがもともと仲は良さそうに見えた」
「まあ陽平にして言わせればあの頃は主従の関係に近かったようだけどね。実際、パシらせたこともあったし」
いや今でも荷物運びさせたり買い物に付き合わせたりと大して変わらないぞ?とすごく言ってあげたかった。言ってあげたかったが、言わないのが大人だと思った。
「それでもまあ傍から見れば仲はよさそうに見えたな。どんなことをあいつがやっても杏はそれで春原を例えば無視とかしたりしなかったし、春原だって杏の誘いを無下に断ったりしなかっただろう?」
「そうよね……よかった、智代にそう言ってもらえて」
杏が破顔して笑った。
「うん?何でまた」
「だってさ、あたしのこと一番知っていそうな友達って、何だかんだ言って智代だし」
「そうか?私から見れば古河さんや椋の方がお前のことは理解していそうなものだが」
だめだめ、と手を振る。
「渚はどっちかというと天然ほわわーんな、まさに団子の権化みたいな子だし、椋にはちょっと解らない気がするのよね」
「そうか?」
「あの子の中じゃ陽平は朋也の親友じゃなくて、雑誌にただで付いて来たけどほしくもなんともない付録としか見てないしね」
……哀れ春原。まあ、椋がそう思う理由もわからなくもないが。特に先日、「椋ちゃん、僕のこと、気軽にお義兄ちゃん、って呼んでいいからね。あ、勝平も」などとのたまっていた時など、特にそれを感じた。
「それに智代と朋也はあたしたちのこと、一番理解していそうだしね。うん」
「いや、こちらとしても力になれて嬉しい」
そう言って私達は店を後にした。
傘に当たる雨の音を聞きながらしばらく歩いたら、急に杏が立ち止まった。
「しまった……抜かったわよ、智代」
「どうしたんだ急に?」
怖い顔をして、杏がゆっくりとこっちを向く。
「あたしたち、ケーキに手付かずだった……」
「あいつがなぁ……何だか実感湧かないな」
「そうか?まあ、気持ちはわかるがな。ところでもうそろそろ勉強道具を片づけておいてくれ」
おう、と朋也の返事を背後で聞きながら、私は片手鍋の中にある韮と豆腐の味噌汁を味見した。うん、いい出来だ。
「ふふふ、杏の花嫁姿、楽しみだな。ドレスかな?それとも白無垢かな?」
「春原のタキシードは……あー、見慣れてるか。あいつ何かあるとすぐあれ着るからな」
そう笑いかけながら朋也がご飯をよそって箸を出した。私はオーブンから鯖の塩焼きを取り出すと、ほうれん草のおひたしと一緒に皿に乗せてちゃぶ台に持っていった。
「智代、実は話があるんだ」
「うん?」
食事を始めて朋也が話しかけてきた。私はマジマジと朋也の顔を見た。あ、ご飯粒がついている。
「別れよう」
しばらく沈黙が私達の間をよぎった後、どちらともなく吹き出した。
「……久し振りに聞いたな、その冗談」
「何だか急に思い出しちゃってさ。さあどうだ、悲しいか」
「私がいなくなったら、お前が困るぞ。私がいなかったら、誰が毎朝お前を起こす?誰が弁当の支度をするんだ?大学の勉強だってどうするんだ?それに、父さんも乗り込んでくるかもしれないし」
「そりゃ怖いな」
朋也、そう頭を掻いているが笑い事じゃないんだぞ?父さんは私がお前の許に来た時から、急にゴルフセットを一式買い揃えた。なぜ突然に始めるんだ、と聞くと、「お前のためなんだよ、一応な」と曖昧な笑いを浮かべていた。どうやら万が一のことが起こったらボール以外の何か、誰とは言わないが私を泣かせて実家に帰らせた鈍感かつ優柔不断で、しかも私を待たせるのが得意な誰かの頭がホールインワンするような、そう言った話らしい。
「絆……かな」
「え?」
「いや、ほらお前と付き合ってた時にこの冗談言ったら、すっごく悲しい顔してたじゃないか。だから長い間言わなかったんだけど、今、こうして一緒に笑えるんだなって思うとさ、俺達の絆も強くなったなぁって思っちゃってな」
「……そうだな」
確かにあの時は、「別れよう」と言われたら本当にそうなりそうで、それで怖くてしょうがなかった。でも今なら言える、そんなことは絶対にないと。朋也は私の傍にいてくれるし、私はいつでも朋也を見ている。
これがもしあの二人だったら?
ふとそんな疑問が湧いた。
例えば春原が杏に「ねえ杏、別れよう」って言ったら、杏は笑い飛ばせるだろうか?あるいは杏が春原に「陽平、あたしたち別れましょ」と言った場合、果たして春原はさらっと受け流せるのだろうか。
「しかし、あれだ。春原が杏のプロポーズ受ける根性あるかな?」
私がその問題について深く考える前に、朋也が笑いながら話を振ってきた。
「何だそれは?いくらヘタレでも、それぐらいの分別はあるだろう」
「ま、逃げ出したりしなきゃいいがな」
「……まさか」
私は笑った。
まさか、な。
朝のまどろみの中で、声がした。
「いいかな……陽平」
重い瞼を開けると、杏が真剣な顔をして覗き込んでいた。
「何だい、杏……?」
「大事な話があるの。いい?」
次第に鮮明になっていく意識。春原は起き上った。
「話って?」
杏は視線を逸らしたり俯いていたが、きっかりと春原を見据えると、彼の手を取った。
「陽平、結婚、しよ?」
「……え?」
「あたし、あんたのこと、それぐらい、ううん、もっと好きだからさ」
「……杏……」
「絶対楽しいよ?あたしとあんただったらさ」
目は覚めてる。酒は入っていない。
しかし春原はその言葉がどこか遠くの出来事のようにしか受け止められなかった。